2013年7月7日日曜日

僕が僕であるために

授業で書いた短い文章の記録。(一部変更を加えました。)


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「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」。



数日前にオーバードーズを調べていて発見した(そしてハマった)、尾崎豊さんの「僕が僕であるために」の歌詞の一部です。曲のタイトルにもなり、少し変えながら全部で3回繰り返されるサビの冒頭にあたる一文です。歌詞はその後、「正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで」と続き、どこかにあるはずの正解、または唯一の「僕」を求める姿をうたっていると言えます。
しかしそれだけに留まらないほど、私にとってこの歌詞は強烈でした。僕が僕であるために、言い換えれば「僕」のアイデンティティを保つために、「勝ち続ける」とは、何に、どのように「勝ち続ける」ことなのか、わかりませんでした。
また、これは「僕」一人のことに限らないようです。曲の終盤に「君が君であるために 勝ち続けなきゃならない」という部分があります。この「君」は、「僕」が「こんなに愛していた」「君」を指すだけでなく、この曲を聴く私のような人に向けて、「僕」が「君」と語りかけているようにもとれます。もしもそう解釈するならば、「私が私であるために」も、「勝ち続けなきゃならない」ようです。しかしそれが何に、どのように「勝ち続ける」ことなのか、よくわかりません。
どうしてわからなかったのか、それを「変身」の観点から考えてみます。
変身とは、「姿を変えること、また、その変えた姿」と広辞苑にはあります。アイデンティティを、身体的なレベルと心的なレベルのそれぞれにおいて「変化のなかにあって、変化しない何ものか」とすれば(注:授業でそのような定義が提示されていた)、変身は身体的なレベルのアイデンティティを揺らがせます。さらに、心的レベルのアイデンティティは揺らがせない場合は「なりたい願望」に基づく変身、揺らがせる場合は「変わりたい願望」に基づく変身だと私は解釈しました。この解釈に従えば、決定的にアイデンティティを揺らがせるのは「変わりたい願望」に基づく変身と言えます。
変わりたい願望は変身そのものを目的としている願望なので、森村泰昌さんの「あらゆる20世紀のイコンに変身する」行為は、変わりたい願望に基づく変身の典型と言えると思います。実際に森村さんは「アイデンティティを拡散させる」ことを目的にこの行為をしているようです。
しかし、私は次の2点の理由から、森村さんの行為はアイデンティティを揺らがしてはいないように考えています。1点めは、森村さんの作品を見れば「ああ、これは森村さんの作品だ」とわかってしまうほどに、「あらゆる20世紀のイコンに変身する」行為は森村さんの一連の作品を通じて「変わらず」、森村さんに結びついてしまっているからです。つまり、「アイデンティティを拡散する」ことそのものがアイデンティティと見なされてしまうということです。2点めは、どの作品を見ても20世紀のイコンと「似ている」とは思うものの20世紀のイコン「そのもの」とは思えないからです。「似ている」とは、近いことを示している一方で、「同じではない」ことをも示しています。そしてその差異は、アイデンティティを見出す手がかりとなるものです。
このように考えると、いくら変身したとしても、アイデンティティは見いだせてしまうように思います。そして、アイデンティティは勝手に見いだせてしまうものだから、アイデンティティを保つために「勝ち続ける」がわからなかったのだと考えました。
ここで、「僕」(または「君」)がそれを保つために勝ち続けなくてはならなかったものは、「僕(君)」のアイデンティティではなく、理想だったのかもしれないと思いつきました。つまり、「僕(君)が」僕(君)の理想の「僕(君)であるために」、見出されてしまうアイデンティティをコントロールし、そのアイデンティティに「勝ち続けなきゃならない」ということなのではないかということです。
私の勝手な解釈ですが、この理想を求めて終わらない勝負で消耗しない処方箋は、この歌詞の中にあるように思います。というのも、サビには「僕は街にのまれて 少し心許しながら」とあります。この「街にのまれて」から、見出されてしまうアイデンティティをコントロールしきれずにのまれてしまう様子を私は連想しました。そして、そのことに「少し心許」す余裕を持つことが、「勝ち続けなきゃいけない」ことの消耗から逃れる処方箋なのではないかと思います。

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2012年11月12日月曜日

Jérôme Bel "The Show Must Go On"

2012.10.20 at MoMA



My friend who was crazy about performance arts recommended me Jérôme Bel, so I took a day trip to MoMA. 

This was my first time watching his work. 

At first, no one was on the stage (actually, it's not a stage but an area divided by tapes), and just the music started.
Some in the crowd stood up suddenly, and they went on to the stage.
Then, the performance started.



It consists of 6 parts.
In the 1st one, the dancers repeated dancing as they were in the night club and just standing doing nothing, again and again.



The 2nd one was interesting, each dancer did a particular movement like massaging her berry, waving his sweater, rolling on the floor, etc.



The 3rd and the 4th part were a kind of melancholic ballet dances, and I couldn't understand what these part meant in the whole performance.


The 5th one was Los Del Rio's La Macarena, that's all. (It was so funny!!)


And the last one was the "Headphones".



I thought the 20 dancers meant the diversity of people (about 13 were men and 7 women, both white and black), but no Asian...

2012.10.20 at MoMA

Also on the same day, Jérôme Bel talked about the relationship between his performance and other works in MoMA, and his works and the spectators.
He emphasized the word "interpret".





  

2011年12月19日月曜日

【追記】ファッションは「次」に行けるのか?

一つのクリシェー紋切り型から、他ジャンルのアプロプリエーションー奪用へ。
2011年度の繊維研究会のインスタレーションは、そのような仮定の元にファッションの「次」を考えるというものでした。


パンフレットに載っている論考によると、90年代のギャルは「「スカート丈」から「髪の盛り方」まで、事細かにファッションが定式化された」のだそうです。しかし、「2005年前後のギャル・ギャル男雑誌のストリートスナップはそうしたメソッド化から逸脱し、さらに性質上交わることがないはずの「モード系」、「裏原系」のアイテムを取り入れたルックが取り上げられるように」なった、と。
このことを他ジャンルからのアプロプリエーションと捉え、DJの多数の曲を自由に繋ぎ合わせる様、あるいはシミレーションアートの既存のものを利用する様との類似性を指摘しています。



Untitled Film Still No.21 1978 saatchi gallery


この主張は、Nicolas Bourriaudの『Postproduction』(Lukas & Sternberg,2001)における議論と類似しているように見えます。
In Postproduction, I try to show that artists' intuitive relationship with art history is now going beyond what we call "the art of appropriation,"  which naturally infers an ideology of ownership, and moving toward a culture of the use of forms, a culture of constant activity of signs based on a collective ideal: sharing.(『Postproduction』「PREFACE TO THE SECOND EDITION」p3 )


彼は、資本主義の行き過ぎによる「スペクタクルの社会」(ギー・ドゥボール)への打開策として、「相互的な人間関係やその社会背景」に価値を見出す『Esthétique relationnelle』(英訳『Relational Aesthetics』,Les Presse Du Reel ,1998、以下「関係性の美学」とします。)を書きました。その関係性の美学の次に、ネットによって生み出された知識のかたちーforms of knowledge generated by the appearance of the Net (同上「INTRODUCTION」p2)ーを扱ったのがPostproductionです。

Postproductionで述べられることは、東浩紀さんのことばを借りれば「データベース消費」をすることと重なります。データベース消費とは、以下の図のような消費の仕方を指します。(詳しくは『動物化するポストモダン』東浩紀,講談社,2001を参照)

http://www62.tok2.com/home/eringilove/doupomo2.htmlより

しかし、ここで重要なのは、ただ奪用するのではなく、全ての人がクリエーターになることです。
他ジャンルが「組み合わさってている」ことではなく、自らが他ジャンルを「組み合わせる」ことに価値を見出しています。いわば、上からではなく下から能動的に創造的なものを生み出そうとすることが重要なのです。
It is the viewers who make the paintings (『Postproduction』「INTRODUCTION」p2)
このことを、ブリオーはマルセル・デュシャンのことばを参照しながら述べています。
ちなみにですが、関係性の美学でもデュシャンの「The creative process.」の冒頭


the two poles of the creation of art:the artist on the one hand, and on the other the spectator who later becomes the posterity.(The creative process.」,Marcel Duchamp,1957) 
 に触れています。




では、これはどういうことでしょうか。例えばファッションを考えてみます。
もしも奪用自体が目的ならば他ジャンルの組み合わせを自由に楽しむ状況は好ましいものです。
一方で、その「他ジャンルの組み合わせ」が商業的に大々的に売りだされたら?
ストリートで流行っているとして雑誌で紹介されたり、お店で似たような着こなしが提唱されることはよくあることのようにおもいます。
そして、それは「他ジャンルの組み合わせ」ではなく「1つのジャンル」として確立されてしまうということです。
結局、わたしたちは思考停止したまま与えられるファッションを享受するだけの消費者になります。
「組み合わせる」ではなく「組み合わさっている」状態(あるいはもはや「組み合わせ」ということばを使えない状態)です。


最初に挙げた
一つのクリシェー紋切り型から、他ジャンルのアプロプリエーションー奪用へ。
は、この問題に触れていません。
つまり、そこでは「組み合わさっている」と「組み合わせる」の区別がありません。


組み合わせの「質」にも目を向ける必要があるのではないか、とわたしは考えます。


1つの解答として繊維研究会主催のトークで水野大二郎さんが述べていたWebをつかったセルフファブリケーションがあります。
これは、まさにデータベースをWeb上に作り、そこから自分の好きなようにパーツを組み合せて服をオーダーするもののようにわたしは理解しました。
確かに、この方法が普及すれば「組み合わせる」ことが可能になります。


しかし、まだ考える余地があるようにおもいます。
例えば、「組み合せる」時に誰かを参考にーあるいは誰かの真似をすることはないのか?
さらに言えば、Webの解析に任せてしまうことはないのか?
いちいち自分で全部考えるのは面倒です。
そして、Amazonのおすすめなどのサービスの在り方がWebとは相性がいいです。


また、セルフファブリケーションが普及した時、「デザイナー」とは何をすべきなのか?
言ってしまえば全員がデザイナーとなる時、プロの「デザイナー」は可能なのか?
これはファッションデザイナーを志す人にとって考えなくてはならない課題なのではないでしょうか。




ここで、ありうる今後の在り方の1つを述べてみようとおもいます。
それは、「組み合わせるためのシステムをデザイナーが設計する」です。


例えば、先ほどのファブリケーションの提案のように、データベースをWeb上であれ実際のショップであれに作るとします。このとき、何をデータベースとして蓄積するか、どのようなプロセスを通じて組み合わせるかなどをデザイナーが考えます。


わたしは、「組み合わせる」を目指す鍵はシステムにあると考えています。
これはつまり、どんなシステムかによって、参加の仕方もそこから生み出されるものも変わってくるということです。


そこで、どのようなシステムであれば「組み合わさっている」ではなく「組み合わせる」状態に導くことが出来るかこそがデザイナーの考えるべきことではないかと考えました。
もしかしたら、それは服単位ではなくパーツ単位を扱うセレクトショップのオーナーのような存在かもしれません。
どのようなパーツをどのような店舗で見せるか、それを考え、作っていくのがデザイナーの役割となるのではないでしょうか。






私事になりますが、わたしは今、関係性の美学及び広い意味での「建築」あるいはアーキテクチャに関心を持っています。
また、ファッションは「建築」と類似しているのではないかという仮定も立てています。
(これはまだ十分な検証をしていないので仮定の域を出ていませんが。)


そこで、ファッションにおけるシステム設計は「建築」の設計の思想に何か参考になる点を発見できるのではないかと期待しています。
例えば、シチュアシオニストの建築ではコンピテンス(内発的学習意欲)を誘発する仕組み=ユーザが環境と相互作用する能力を発動させる仕掛けづくりを意識していたといいます。
ここで使われた方法をそのまま適用することは難しいとしても、ヒントには成りうるのではないでしょうか。




「組み合わせる」をキーワードに、服だけでなく、その周りを含めたシステムを作り出すことが「次」に行く一つの方法に成りうるとおもいます。




【追記】
批判として「訳がわからない」ということばをいただきました。
その訳のわからなさの原因に、
1 論理的に矛盾している
2 語彙が共有できていない
が想定できます。
1の場合は、ぜひその該当部を指摘していただきたいです。指摘に対して答えようとおもいます。
2の場合は、例えば「データベース消費」の説明を割愛している、英語の文献をそのまま引用している、などの指摘があるかとおもいます。
データベース消費に関しては、確かにある程度知識があることを前提としました。
なぜならば、東浩紀さんの考えを正確に、簡潔にまとめることができる力がわたしにはないと考えたからです。
そこで、代わりに参考文献を提示しました。そちらを参照していただければとおもいます。
英語に関しては、この文献はまだ日本語訳がないこと、恣意的に訳しては解釈に歪みが出てしまう可能性があること、英語は比較的触れたことのある人が多いだろうこと、その3点を理由に原文を載せました。








2011年9月10日土曜日

横トリ雑感。

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突然ですが、バトンを、横トリ(横浜トリエンナーレ)で、受け取っています。

仕掛人は田中功起さん。彼は横トリに出品されています。
横トリ会場(横浜美術館)にあるのは、数本の映像と、畳や自転車といった映像に関係する小道具、そしてネット上で同じ映像が見られるURLを書いた紙。
1番はじめは、田中さんが自転車で旅をする映像です。 ここに写っているのは「何気ない」風景です。劇的な起承転結を求めて見ると、つかもうと思ってもつかめなくなってもどかしさを感じます。ここでピリッと効いてくるのが「 A painting to public」というタイトルです。inでもofでもなくto。また、「自分が旅で見た風景」ではなく「旅をする自分」を撮っているので、誰の視点なの?という不思議な感覚になります。かといって、全てが映っているわけではなく、神さまの視点ではないようです。
映像をもうひとつ美容室での一場面でしょうか。複数人で一人の髪の毛を切っています。綿密な話し合いにはじまり、こわごわと、あるいはにこにこしながらヘアスタイルを完成させていきます
これらの映像では、日常ー特に自分と周りの人々や物との関係性が示唆されているかのようです。
ところで、この作品は「いつ、どこに」あるのでしょうか?実際に映像に映っている行為が行われているところ?映像を見る会場?それとも、紙に書いてあるURLで映像を見ているところ?
どれも作品と言える、逆に言えばどこまでが作品かわからないーつまり、アートと非・アートの境界が滲み、生活へ作品が染み出してきています。例えば横トリの会場(横浜”美術館”)にあるのも過程です。それはその時その場でまとまり固まることはありません。その作品は、受け取った人がそれぞれ成長させます帰ってから再びネットで見ても(見なくても)よし、いつどこで誰と見てもよし。作品を種に友だちと話すのもよし。
ここで起きているのは、受け手が作品を作るという転倒です。作品は、周りを巻き込みながら育ち続けます。



1998年、フランスのキュレーター、ニコラ・ブリオーは『relational aesthetics』という本を出しています。 日本語で言えば、「関係性の美学」。 例として挙げられているのが、リクリット・ティラバーニャの、ギャラリーに来た人に料理をふるまい一緒に食べるという作品。物ではなく、過程やその中で生まれる関係性へ光が当たっています。これはどこか田中さんの作品との関連がありそうです。
(ちなみにですが、『relational aesthetics』はもうすぐ日本語訳が出るはずです。 また、「関係性の美学」に対して『表象5』にクレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」のが、『美術手帖』2011年4月号に大森俊克さんの「リアム・ギリックと『関係性の美学』」が掲載されています。これらの論に対しても、一部では「政治的側面に限定されすぎているのではないか」という疑問が提出されているようです。 何はともあれ、多くの人が関係性の美学に関心を持っていることがわかります。)

さて、アートに限らない話をします。 日々生きていく中では、目的の達成こそが目的なのでしょうか? それではいつまでも「実り」が先延ばしにされてしまうのではないでしょうか?そのような問いを田中さんの作品ーあるいは「関係性の美学」の光の当たる作品は発しているようです。
一方で、目の前がいくら輝いていても、先を見ようとしない場当たりの生活では不安は消えません。 ではどうすべきなのでしょうか?


ということで、受け取ったバトンはもう次へ繋ぐことができたようです。
もちろん、ここでリレーを止めてもかまいません。 また、このバトンは、いつでも、どこでも、誰にでも、何回でも何人にでも繋ぐことができます
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2011年8月17日水曜日

【追記】Ecosophiaー堂島リバービエンナーレに行ってきた

私、実は純関西系の血筋だったりします。
両親も祖父母も皆関西出身です。


とはいえ、しばらく帰って(育ちは東京なのでこの表現がぴったりくるのかはわかりませんが)いなかったので、この夏は祖父母を訪ねて大阪に行ってきました。


今回の帰省の最大の楽しみは、アーティスティック・ディレクターを務めていらっしゃる飯田高誉さんのツイートを見て気になっていた「堂島リバービエンナーレ」。


期待通りの印象的な展示でした。


サイトには以下のようなコンセプトがあります。
エコゾフィー(今回の展示の基になった概念)とは、環境の生態に止まらず、心や社会の生態を組み合わせた考察という意味の造語で、環境の危機に対する真の答えは、事象を地球規模でとらえ、有形無形の財の目標を再設定し、これまでの規範を越えた文化的な活動を行うという考え方です。
環境・心・社会の組み合わせを謳うこの文章も考えさせてくれるものがありますが、何より印象的だったのは 飯田さんのTwitterでの以下の発言でした。
@TAKAYOIIDA 堂島リバービエンナーレでは、まさに感性と理性の和合を試み、(中略)我々の感覚=智領域を押し広げてくれることを願っております。
感性と理性の和合って、なんだかわくわくします。




さて、展示の中で印象的だったのは、チームラボさんの作品と安部典子さんの作品とマーティン・グリードの作品。


まず、チームラボさんの作品「百年海図巻」。
こちらに概要が載っています。
作品自体のコンセプトも面白いし、アニメもとてもきれいでした。
でも何より印象的だったのは展示されていた位置。
主会場を上から見下ろす形で設置されていて、アニメの内容をあわせて考えると海に沈んでいくものは・・・と考えてしまいました。




安部典子さんの作品は3つ出展されていたのですが、そのどれもから「堆積」と「炸裂」という言葉を連想しました。
ちなみにですが、「堆積」って永遠や無限、歴史の厚みを感じるので好きなんですよね。
(写真は取れなかったのですが、こちらのブログに作品写真が載っています。)


特にお気に入りなのは震災の新聞と赤い球の作品。
この赤い球の「ごろり」とした感じが心に引っ掛かります。




そしてずば抜けて心に残ったのがマーティン・クリードの作品。
1つはターナー賞を受賞したThe lights going on and off
 もう一つはこちらのthe whole world + the work = the whole world のネオンではないバージョン。会場入口上にありました。
震災にフォーカスを当てている、あるいは震災を彷彿とさせる作品が多い中で、なぜこれらの作品が選ばれたのかが興味深いです。
「アートとは何か」という、これらの作品が提起する問いの重さを感じます。
今回の展示への思いというか、disasterを前にしたアートの思いがここに凝縮されているように感じました。




月曜日に行ったので国立国際美術館の森山大道さんの個展も、THE SIXの加藤泉さんの「遙かなる視線」も見られなかったという大失態。。。
でも、堂島リバービエンナーレだけでもなかなか満足感の高い展示だったのでよしとします。笑




追記
先日、Ecosophiaという言葉について次のようなことを教えて頂きました。
Sophyの語源のギリシア語であるΣΟΦΙΑ(ソフィア)は知性の意味。Ecoの語源であるギリシア語のοἶκος(オイコス)は「氏族、家屋の集まり、集落」の意味なので、Ecosophyは「共に生きる場についての知恵」。共に生きる場=自然環境+社会環境
語源に遡ったこの解釈の仕方は非常に明快でわかりやすいです。


公式サイトのコンセプトにもありますが、Ecosophiaの基になったエコゾフィーは、フェリックス・ガタリの『3つのエコロジー』からとったもののようです。
(ちなみにですが、最近の飯田さんのTwitterを読むと度々『3つのエコロジー』からの引用が見られます。)
以下、付け焼刃ながら勉強したことについて少し。


エコゾフィーはEcology(Eco)+Sophiaの造語のようですが、ガタリの指すEcoとは、
・環境
・社会体ー社会的諸関係
・主観性ー人間的主観性
とのこと。
『3つのエコロジー』には次のような言及がされています。
われわれの生きているこの時代の大きな危機からの脱出は、まさしく、発生期状態の主観性と、変異状態の社会体と、再創造の臨界点に達している環境という三つの要素の節合いかんにかかっているのである。


このような知識を得ると、先に挙げたコンセプトのエコゾフィーに関する説明がよりクリアにわかります。


さて、この「大きな危機」とは何かが気になるところですが、別の箇所では以下のような記述が見られます。
フランスにおける原子力発電所の急増は、ヨーロッパの広域な地域にチェルノブイリ型の自己が起きた場合の影響の危険性を押しつけているのである。幾千発もの核爆弾の貯蔵が、ささいな技術的故障あるいは人間的過失によって、自動的に人間の大量殺戮に結びつくという途方もない危険性についてはあえて言及するまでもなく周知のところであろう。
言うまでもありませんが、今、この言葉は非常に重いです。




ちなみにではありますが、私は今回のディレクターである飯田さんをとても尊敬しています。


彼は今回の展示を自身の過去の展示との関連の中で捉えられているようです。例えば
1994年「欲望の砂漠ー快感原則の彼岸展」
2009年『ARCHITECT 2.0』
2010年『LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010「メタボリズム2.0」』
2010年「ゼロ年世代"の都市・建築・アート『CITY2.0-WEB世代の都市進化論』」
など。


また、今後の展望として飯田さんはTwitterで次のように述べられていました。
エコソフィアというテーマで、これからも展開できればと考えております
2007年から2010年までの間に4回にわたって企画開催した「戦争と芸術ー美の恐怖と幻影Ⅰ~Ⅳ」(京都造形芸術大学)の意味を今一度自ら再考し、深化させていきたい。
期待大です。


また、気になる発言としては以下のようなものもありました。
優れた芸術作品ほどリビドーの発生するマージナルな領域に棲息し、その不条理を顕在化させる両義的な役割があるように思えます。ただ悟性のはたらきによってリビドーそのものを客体化させるのも芸術の役割であるはずだと考えております。
難しい言葉が並んでいてこの文章を理解しきれてはいないのですが、飯田さんの芸術観に触れられる貴重な発言かと思います。


・・・とまぁ飯田さんのストーカーのようになってしまいました。
しっかりとその活動を見て、学びたいなぁと思っています。



2011年8月12日金曜日

アートってなんなのだろうか。

An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler




「アートとは何か」という問いは長年繰り返されてきたものだと思います。


この問いに対して「アートとは〇〇だ。」と普遍的定義を唱えることはナンセンスだとは思うけれど、敢えて、最近このことについて考えています。
ほんと、アートって何なのだろうなぁ。


遡って古代から歴史を考えてみると、それは模倣であり、象徴であり、天才の所産であり、乗り越えてゆくものでありetc。
もちろんそれは西洋だけではなくて、いわゆる東洋と呼ばれる地域でも独自の考え方があることを、最近勉強しながら面白いなぁと思っています。(西洋/東洋という区切りの妥当性はここでは考えず、わかりやすいだろうということで使っています。)


このように歴史の縦軸・地域の横軸を全てとは言えないまでも見渡してみると、いろんな考え方があったことに驚きます。
その時代や地域の世界の見方がアートの在り方にも反映され、絶対的アートたるものはないのだろうなぁというのが正直な感想です。


しかし、これを言い換えてみれば「世界の見方を提示するもの」がアートだと言えるかもしれません。
さらに、歴史を見ると、その「世界の見方」は既に在るものだけではなく、これから在るべきものでもあるのではないかと考えました。


An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler


この言葉は、主語がartistなのでモダニズムの時代の考え方が読み取れますが、それを差し置いても「for  (his) vision」には注目せざるを得ません。




では、問うべき(というよりも問うことが出来る)は、「今ここ」にふさわしい世界の見方ーvision、そしてアートとは何なのだろうかということです。
(ここで言う「今」「ここ」は具体的に何を指すのかには触れません。)


詳しく考える前に、20世紀以降のアートを概観していると、私には次のように見えました。
絶対的な存在としてのアーティストを通過したアート
→社会を通過したアート
→社会の中の個人(アーティスト)を通過したアート
→?


これは極個人的な考えなので20世紀以降の全ての要素を網羅しているとは思っていませんが、とりあえずここではこれを採用します。
これを言い換えると、


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
→?


となります。
ならば次の?に当てはまるのは、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入することなのではないかと考えました。
つまり、面を平行移動した軌跡のように、四角柱が作られるイメージです。


これを具体的に言い表すとどうなるのかというと、社会にいるあらゆる人々が「総アーティスト状態」ということになるかと思います。
その実現のために考えられるのは、
・いわゆる参加型アート
・アーティストの教育活動
ではないでしょうか。


まず初めの参加型アートは、最近よく見るような気がしています。
ここでは具体例を挙げませんが、ワークショップ系の活動や、Nicolas Bourriaud の『Relational Aesthetics』に挙げられる作品を考えるとその流れを感じます。


しかし、ここで私が注意したいのが、「のるか、反るか」の作品ではダメではないかということです。
例えば以前、椹木野衣さんの「後美術論」ではオノ・ヨーコさんの作品を「のるか、反るか」と表現していました。
これは春のArt|Baselでも行われた「Wish Tree」もそうで、観客がどのような行為をするかは決まっていて、それをやる・やらないの選択(のみ)が自由であると言える作品のように見えます。(実際行っていない人に言えることではないのですが。。。)


もちろん1つ前のブログエントリーで紹介したように、私はオノ・ヨーコさんの作品が好きです。
しかし、もしも「総アーティスト状態」を目指すとするならばその真似ではいけないのではないかと思うわけです。
何故ならば、確かに参加決定権は観客側にあるけれど、それはアーティストとしての参加ではなく、あくまで一観客としての参加だからです。
これは例えるならば「いいね!」ボタンを押すだけの行為と同じ。
ちょうどTwitterで玉置沙由里さんがつぶやいていた、


自分を成長させるためにはやはり負荷が高い準備と議論の場が必要であると判断。いいね!だけでは成長できない(後略)


が思い出されました。
アートと彼女の言う成長は関係ないのかもしれないけれど、いいね!の次の段階が求められつつあるように思います。


そのようなわけで、「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」というのがこの「総アーティスト状態」にふさわしい参加型アートなのではないかと思います。


では、2番目のアーティストの教育活動。
これは、アーティストに対して「教育」が可能なのか?という根源的な問いも含めて、最近自分が気になっていることです。
まだ自分の中で考えがまとまらないので詳しくは触れませんが、「総アーティスト状態」とアーティスト教育が結びつくロジックは単純明快かと思います。


さて、ここまで参加型アートとアーティスト教育が


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
の後に続く、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入するー「総アーティスト状態」の在り方なのではないかと言いました。




しかし、本当に考えないといけないのはvision、アートの在り方です。
ここで注意したいのが、参加型アートとアーティスト教育は提示すべきvisionではなく提示する形式だということです。
つまり、内容ではなく形式だということです。
これでは答えになっていません。


しかし、この参加型アートとアーティスト教育の内容ーvisionがもしも1つに集約されるとしたら、それは「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」参加型アートには成り得ないし、単なる軍国主義的アーティスト教育にしかなりません。


ならばどうすればいいのか。
そこで私は「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvisionなのではないかと考えます。
つまり、多様なvisionがあるけれど、それは世界の見方ーvisionを提示するための手助けとなるようなvisionであるということです。
この考え方は「総アーティスト状態」にふさわしいもののように思います。




「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvision
これが「今ここ」のアートなのかなぁ。
ついでにそれは参加型アートとアーティスト教育とかになるのかな。もちろんこれだけではないけれど。


以上が、最近ぼんやりと考えていたことでした。