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「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」。
数日前にオーバードーズを調べていて発見した(そしてハマった)、尾崎豊さんの「僕が僕であるために」の歌詞の一部です。曲のタイトルにもなり、少し変えながら全部で3回繰り返されるサビの冒頭にあたる一文です。歌詞はその後、「正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで」と続き、どこかにあるはずの正解、または唯一の「僕」を求める姿をうたっていると言えます。
しかしそれだけに留まらないほど、私にとってこの歌詞は強烈でした。僕が僕であるために、言い換えれば「僕」のアイデンティティを保つために、「勝ち続ける」とは、何に、どのように「勝ち続ける」ことなのか、わかりませんでした。
また、これは「僕」一人のことに限らないようです。曲の終盤に「君が君であるために 勝ち続けなきゃならない」という部分があります。この「君」は、「僕」が「こんなに愛していた」「君」を指すだけでなく、この曲を聴く私のような人に向けて、「僕」が「君」と語りかけているようにもとれます。もしもそう解釈するならば、「私が私であるために」も、「勝ち続けなきゃならない」ようです。しかしそれが何に、どのように「勝ち続ける」ことなのか、よくわかりません。
どうしてわからなかったのか、それを「変身」の観点から考えてみます。
変身とは、「姿を変えること、また、その変えた姿」と広辞苑にはあります。アイデンティティを、身体的なレベルと心的なレベルのそれぞれにおいて「変化のなかにあって、変化しない何ものか」とすれば(注:授業でそのような定義が提示されていた)、変身は身体的なレベルのアイデンティティを揺らがせます。さらに、心的レベルのアイデンティティは揺らがせない場合は「なりたい願望」に基づく変身、揺らがせる場合は「変わりたい願望」に基づく変身だと私は解釈しました。この解釈に従えば、決定的にアイデンティティを揺らがせるのは「変わりたい願望」に基づく変身と言えます。
変わりたい願望は変身そのものを目的としている願望なので、森村泰昌さんの「あらゆる20世紀のイコンに変身する」行為は、変わりたい願望に基づく変身の典型と言えると思います。実際に森村さんは「アイデンティティを拡散させる」ことを目的にこの行為をしているようです。
しかし、私は次の2点の理由から、森村さんの行為はアイデンティティを揺らがしてはいないように考えています。1点めは、森村さんの作品を見れば「ああ、これは森村さんの作品だ」とわかってしまうほどに、「あらゆる20世紀のイコンに変身する」行為は森村さんの一連の作品を通じて「変わらず」、森村さんに結びついてしまっているからです。つまり、「アイデンティティを拡散する」ことそのものがアイデンティティと見なされてしまうということです。2点めは、どの作品を見ても20世紀のイコンと「似ている」とは思うものの20世紀のイコン「そのもの」とは思えないからです。「似ている」とは、近いことを示している一方で、「同じではない」ことをも示しています。そしてその差異は、アイデンティティを見出す手がかりとなるものです。
このように考えると、いくら変身したとしても、アイデンティティは見いだせてしまうように思います。そして、アイデンティティは勝手に見いだせてしまうものだから、アイデンティティを保つために「勝ち続ける」がわからなかったのだと考えました。
ここで、「僕」(または「君」)がそれを保つために勝ち続けなくてはならなかったものは、「僕(君)」のアイデンティティではなく、理想だったのかもしれないと思いつきました。つまり、「僕(君)が」僕(君)の理想の「僕(君)であるために」、見出されてしまうアイデンティティをコントロールし、そのアイデンティティに「勝ち続けなきゃならない」ということなのではないかということです。
私の勝手な解釈ですが、この理想を求めて終わらない勝負で消耗しない処方箋は、この歌詞の中にあるように思います。というのも、サビには「僕は街にのまれて 少し心許しながら」とあります。この「街にのまれて」から、見出されてしまうアイデンティティをコントロールしきれずにのまれてしまう様子を私は連想しました。そして、そのことに「少し心許」す余裕を持つことが、「勝ち続けなきゃいけない」ことの消耗から逃れる処方箋なのではないかと思います。
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