2011年9月10日土曜日

横トリ雑感。

******************************



突然ですが、バトンを、横トリ(横浜トリエンナーレ)で、受け取っています。

仕掛人は田中功起さん。彼は横トリに出品されています。
横トリ会場(横浜美術館)にあるのは、数本の映像と、畳や自転車といった映像に関係する小道具、そしてネット上で同じ映像が見られるURLを書いた紙。
1番はじめは、田中さんが自転車で旅をする映像です。 ここに写っているのは「何気ない」風景です。劇的な起承転結を求めて見ると、つかもうと思ってもつかめなくなってもどかしさを感じます。ここでピリッと効いてくるのが「 A painting to public」というタイトルです。inでもofでもなくto。また、「自分が旅で見た風景」ではなく「旅をする自分」を撮っているので、誰の視点なの?という不思議な感覚になります。かといって、全てが映っているわけではなく、神さまの視点ではないようです。
映像をもうひとつ。美容室での一場面でしょうか。複数人で一人の髪の毛を切っています。綿密な話し合いにはじまり、こわごわと、あるいはにこにこしながらヘアスタイルを完成させていきます。
これらの映像では、日常ー特に自分と周りの人々や物との関係性が示唆されているかのようです。
ところで、この作品は「いつ、どこに」あるのでしょうか?実際に映像に映っている行為が行われているところ?映像を見る会場?それとも、紙に書いてあるURLで映像を見ているところ?
どれも作品と言える、逆に言えばどこまでが作品かわからないーつまり、アートと非・アートの境界が滲み、生活へ作品が染み出してきています。例えば横トリの会場(横浜”美術館”)にあるのも過程です。それはその時その場でまとまり固まることはありません。その作品は、受け取った人がそれぞれ成長させます帰ってから再びネットで見ても(見なくても)よし、いつどこで誰と見てもよし。作品を種に友だちと話すのもよし。
ここで起きているのは、受け手が作品を作るという転倒です。作品は、周りを巻き込みながら育ち続けます。



1998年、フランスのキュレーター、ニコラ・ブリオーは『relational aesthetics』という本を出しています。 日本語で言えば、「関係性の美学」。 例として挙げられているのが、リクリット・ティラバーニャの、ギャラリーに来た人に料理をふるまい一緒に食べるという作品。物ではなく、過程やその中で生まれる関係性へ光が当たっています。これはどこか田中さんの作品との関連がありそうです。
(ちなみにですが、『relational aesthetics』はもうすぐ日本語訳が出るはずです。 また、「関係性の美学」に対して『表象5』にクレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」のが、『美術手帖』2011年4月号に大森俊克さんの「リアム・ギリックと『関係性の美学』」が掲載されています。これらの論に対しても、一部では「政治的側面に限定されすぎているのではないか」という疑問が提出されているようです。 何はともあれ、多くの人が関係性の美学に関心を持っていることがわかります。)

さて、アートに限らない話をします。 日々生きていく中では、目的の達成こそが目的なのでしょうか? それではいつまでも「実り」が先延ばしにされてしまうのではないでしょうか?そのような問いを田中さんの作品ーあるいは「関係性の美学」の光の当たる作品は発しているようです。
一方で、目の前がいくら輝いていても、先を見ようとしない場当たりの生活では不安は消えません。 ではどうすべきなのでしょうか?


ということで、受け取ったバトンはもう次へ繋ぐことができたようです。
もちろん、ここでリレーを止めてもかまいません。 また、このバトンは、いつでも、どこでも、誰にでも、何回でも何人にでも繋ぐことができます。
******************************

2011年8月17日水曜日

【追記】Ecosophiaー堂島リバービエンナーレに行ってきた

私、実は純関西系の血筋だったりします。
両親も祖父母も皆関西出身です。


とはいえ、しばらく帰って(育ちは東京なのでこの表現がぴったりくるのかはわかりませんが)いなかったので、この夏は祖父母を訪ねて大阪に行ってきました。


今回の帰省の最大の楽しみは、アーティスティック・ディレクターを務めていらっしゃる飯田高誉さんのツイートを見て気になっていた「堂島リバービエンナーレ」。


期待通りの印象的な展示でした。


サイトには以下のようなコンセプトがあります。
エコゾフィー(今回の展示の基になった概念)とは、環境の生態に止まらず、心や社会の生態を組み合わせた考察という意味の造語で、環境の危機に対する真の答えは、事象を地球規模でとらえ、有形無形の財の目標を再設定し、これまでの規範を越えた文化的な活動を行うという考え方です。
環境・心・社会の組み合わせを謳うこの文章も考えさせてくれるものがありますが、何より印象的だったのは 飯田さんのTwitterでの以下の発言でした。
@TAKAYOIIDA 堂島リバービエンナーレでは、まさに感性と理性の和合を試み、(中略)我々の感覚=智領域を押し広げてくれることを願っております。
感性と理性の和合って、なんだかわくわくします。




さて、展示の中で印象的だったのは、チームラボさんの作品と安部典子さんの作品とマーティン・グリードの作品。


まず、チームラボさんの作品「百年海図巻」。
こちらに概要が載っています。
作品自体のコンセプトも面白いし、アニメもとてもきれいでした。
でも何より印象的だったのは展示されていた位置。
主会場を上から見下ろす形で設置されていて、アニメの内容をあわせて考えると海に沈んでいくものは・・・と考えてしまいました。




安部典子さんの作品は3つ出展されていたのですが、そのどれもから「堆積」と「炸裂」という言葉を連想しました。
ちなみにですが、「堆積」って永遠や無限、歴史の厚みを感じるので好きなんですよね。
(写真は取れなかったのですが、こちらのブログに作品写真が載っています。)


特にお気に入りなのは震災の新聞と赤い球の作品。
この赤い球の「ごろり」とした感じが心に引っ掛かります。




そしてずば抜けて心に残ったのがマーティン・クリードの作品。
1つはターナー賞を受賞したThe lights going on and off。
 もう一つはこちらのthe whole world + the work = the whole world のネオンではないバージョン。会場入口上にありました。
震災にフォーカスを当てている、あるいは震災を彷彿とさせる作品が多い中で、なぜこれらの作品が選ばれたのかが興味深いです。
「アートとは何か」という、これらの作品が提起する問いの重さを感じます。
今回の展示への思いというか、disasterを前にしたアートの思いがここに凝縮されているように感じました。




月曜日に行ったので国立国際美術館の森山大道さんの個展も、THE SIXの加藤泉さんの「遙かなる視線」も見られなかったという大失態。。。
でも、堂島リバービエンナーレだけでもなかなか満足感の高い展示だったのでよしとします。笑




追記
先日、Ecosophiaという言葉について次のようなことを教えて頂きました。
Sophyの語源のギリシア語であるΣΟΦΙΑ(ソフィア)は知性の意味。Ecoの語源であるギリシア語のοἶκος(オイコス)は「氏族、家屋の集まり、集落」の意味なので、Ecosophyは「共に生きる場についての知恵」。共に生きる場=自然環境+社会環境
語源に遡ったこの解釈の仕方は非常に明快でわかりやすいです。


公式サイトのコンセプトにもありますが、Ecosophiaの基になったエコゾフィーは、フェリックス・ガタリの『3つのエコロジー』からとったもののようです。
(ちなみにですが、最近の飯田さんのTwitterを読むと度々『3つのエコロジー』からの引用が見られます。)
以下、付け焼刃ながら勉強したことについて少し。


エコゾフィーはEcology(Eco)+Sophiaの造語のようですが、ガタリの指すEcoとは、
・環境
・社会体ー社会的諸関係
・主観性ー人間的主観性
とのこと。
『3つのエコロジー』には次のような言及がされています。
われわれの生きているこの時代の大きな危機からの脱出は、まさしく、発生期状態の主観性と、変異状態の社会体と、再創造の臨界点に達している環境という三つの要素の節合いかんにかかっているのである。


このような知識を得ると、先に挙げたコンセプトのエコゾフィーに関する説明がよりクリアにわかります。


さて、この「大きな危機」とは何かが気になるところですが、別の箇所では以下のような記述が見られます。
フランスにおける原子力発電所の急増は、ヨーロッパの広域な地域にチェルノブイリ型の自己が起きた場合の影響の危険性を押しつけているのである。幾千発もの核爆弾の貯蔵が、ささいな技術的故障あるいは人間的過失によって、自動的に人間の大量殺戮に結びつくという途方もない危険性についてはあえて言及するまでもなく周知のところであろう。
言うまでもありませんが、今、この言葉は非常に重いです。




ちなみにではありますが、私は今回のディレクターである飯田さんをとても尊敬しています。


彼は今回の展示を自身の過去の展示との関連の中で捉えられているようです。例えば
1994年「欲望の砂漠ー快感原則の彼岸展」
2009年『ARCHITECT 2.0』
2010年『LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010「メタボリズム2.0」』
2010年「ゼロ年世代"の都市・建築・アート『CITY2.0-WEB世代の都市進化論』」
など。


また、今後の展望として飯田さんはTwitterで次のように述べられていました。
エコソフィアというテーマで、これからも展開できればと考えております
2007年から2010年までの間に4回にわたって企画開催した「戦争と芸術ー美の恐怖と幻影Ⅰ~Ⅳ」(京都造形芸術大学)の意味を今一度自ら再考し、深化させていきたい。
期待大です。


また、気になる発言としては以下のようなものもありました。
優れた芸術作品ほどリビドーの発生するマージナルな領域に棲息し、その不条理を顕在化させる両義的な役割があるように思えます。ただ悟性のはたらきによってリビドーそのものを客体化させるのも芸術の役割であるはずだと考えております。
難しい言葉が並んでいてこの文章を理解しきれてはいないのですが、飯田さんの芸術観に触れられる貴重な発言かと思います。


・・・とまぁ飯田さんのストーカーのようになってしまいました。
しっかりとその活動を見て、学びたいなぁと思っています。



2011年8月12日金曜日

アートってなんなのだろうか。

An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler




「アートとは何か」という問いは長年繰り返されてきたものだと思います。


この問いに対して「アートとは〇〇だ。」と普遍的定義を唱えることはナンセンスだとは思うけれど、敢えて、最近このことについて考えています。
ほんと、アートって何なのだろうなぁ。


遡って古代から歴史を考えてみると、それは模倣であり、象徴であり、天才の所産であり、乗り越えてゆくものでありetc。
もちろんそれは西洋だけではなくて、いわゆる東洋と呼ばれる地域でも独自の考え方があることを、最近勉強しながら面白いなぁと思っています。(西洋/東洋という区切りの妥当性はここでは考えず、わかりやすいだろうということで使っています。)


このように歴史の縦軸・地域の横軸を全てとは言えないまでも見渡してみると、いろんな考え方があったことに驚きます。
その時代や地域の世界の見方がアートの在り方にも反映され、絶対的アートたるものはないのだろうなぁというのが正直な感想です。


しかし、これを言い換えてみれば「世界の見方を提示するもの」がアートだと言えるかもしれません。
さらに、歴史を見ると、その「世界の見方」は既に在るものだけではなく、これから在るべきものでもあるのではないかと考えました。


An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler


この言葉は、主語がartistなのでモダニズムの時代の考え方が読み取れますが、それを差し置いても「for  (his) vision」には注目せざるを得ません。




では、問うべき(というよりも問うことが出来る)は、「今ここ」にふさわしい世界の見方ーvision、そしてアートとは何なのだろうかということです。
(ここで言う「今」「ここ」は具体的に何を指すのかには触れません。)


詳しく考える前に、20世紀以降のアートを概観していると、私には次のように見えました。
絶対的な存在としてのアーティストを通過したアート
→社会を通過したアート
→社会の中の個人(アーティスト)を通過したアート
→?


これは極個人的な考えなので20世紀以降の全ての要素を網羅しているとは思っていませんが、とりあえずここではこれを採用します。
これを言い換えると、


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
→?


となります。
ならば次の?に当てはまるのは、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入することなのではないかと考えました。
つまり、面を平行移動した軌跡のように、四角柱が作られるイメージです。


これを具体的に言い表すとどうなるのかというと、社会にいるあらゆる人々が「総アーティスト状態」ということになるかと思います。
その実現のために考えられるのは、
・いわゆる参加型アート
・アーティストの教育活動
ではないでしょうか。


まず初めの参加型アートは、最近よく見るような気がしています。
ここでは具体例を挙げませんが、ワークショップ系の活動や、Nicolas Bourriaud の『Relational Aesthetics』に挙げられる作品を考えるとその流れを感じます。


しかし、ここで私が注意したいのが、「のるか、反るか」の作品ではダメではないかということです。
例えば以前、椹木野衣さんの「後美術論」ではオノ・ヨーコさんの作品を「のるか、反るか」と表現していました。
これは春のArt|Baselでも行われた「Wish Tree」もそうで、観客がどのような行為をするかは決まっていて、それをやる・やらないの選択(のみ)が自由であると言える作品のように見えます。(実際行っていない人に言えることではないのですが。。。)


もちろん1つ前のブログエントリーで紹介したように、私はオノ・ヨーコさんの作品が好きです。
しかし、もしも「総アーティスト状態」を目指すとするならばその真似ではいけないのではないかと思うわけです。
何故ならば、確かに参加決定権は観客側にあるけれど、それはアーティストとしての参加ではなく、あくまで一観客としての参加だからです。
これは例えるならば「いいね!」ボタンを押すだけの行為と同じ。
ちょうどTwitterで玉置沙由里さんがつぶやいていた、


自分を成長させるためにはやはり負荷が高い準備と議論の場が必要であると判断。いいね!だけでは成長できない(後略)


が思い出されました。
アートと彼女の言う成長は関係ないのかもしれないけれど、いいね!の次の段階が求められつつあるように思います。


そのようなわけで、「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」というのがこの「総アーティスト状態」にふさわしい参加型アートなのではないかと思います。


では、2番目のアーティストの教育活動。
これは、アーティストに対して「教育」が可能なのか?という根源的な問いも含めて、最近自分が気になっていることです。
まだ自分の中で考えがまとまらないので詳しくは触れませんが、「総アーティスト状態」とアーティスト教育が結びつくロジックは単純明快かと思います。


さて、ここまで参加型アートとアーティスト教育が


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
の後に続く、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入するー「総アーティスト状態」の在り方なのではないかと言いました。




しかし、本当に考えないといけないのはvision、アートの在り方です。
ここで注意したいのが、参加型アートとアーティスト教育は提示すべきvisionではなく提示する形式だということです。
つまり、内容ではなく形式だということです。
これでは答えになっていません。


しかし、この参加型アートとアーティスト教育の内容ーvisionがもしも1つに集約されるとしたら、それは「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」参加型アートには成り得ないし、単なる軍国主義的アーティスト教育にしかなりません。


ならばどうすればいいのか。
そこで私は「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvisionなのではないかと考えます。
つまり、多様なvisionがあるけれど、それは世界の見方ーvisionを提示するための手助けとなるようなvisionであるということです。
この考え方は「総アーティスト状態」にふさわしいもののように思います。




「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvision
これが「今ここ」のアートなのかなぁ。
ついでにそれは参加型アートとアーティスト教育とかになるのかな。もちろんこれだけではないけれど。


以上が、最近ぼんやりと考えていたことでした。





















2011年6月3日金曜日

私の「好き」を解明する。


最近、私が好きなアートの共通点って何だろう?と考えてみました。



今私が気になるアートは、例えばマークロスコ。
No 61 Rust and Blue 1953 © Kate Rothko Prizel and Christopher Rothko/DACS 1998


ふと本で観た絵が何故か心に残っていて、フランス旅行の際にポンピドゥーセンターで観たときに「好きだ」と確信しました。

あと、同時代のジャクソンポロックも好きだったりします。
http://aokiin.seesaa.net/article/119919025.htmlより

彼はいわばペンキをばらまいて描くアクションペインティングで有名。
でも、私の場合アクションペインティングというと彼がまず頭に浮かんだりします。




http://www.art-inn.jp/tenrankai/trback200909/002125.htmlより

白髪一雄さん。
ロープにつかまっている…笑

他にも好きなのが、宮島達男さんのLEDを使った作品。


《MEGA DEATH》L.E.D.、IC、電線、人感知センサー
500×3400×1.8cm(installation)
1999/Photo by UENO Norihiro
http://www.operacity.jp/ag/exh05.phpより

河原温さんのこのシリーズ。


http://tokyo75.exblog.jp/page/358/より

フェリックス・ゴンザレス・トレスの雰囲気も、とても好きです。
こちらは横浜トリエンナーレでの、キャンディの作品。


http://www.jpf.go.jp/yt2001/cyber/artist/039_Gonz/index.htmlより



オノヨーコさんの、天井にyesの文字だけ書き、それを虫眼鏡で覗かせるこちらも!
http://chigo-mixtape.blogspot.com/2011/02/yes.htmlより
最近観たのでは、国立新美術館でやっているアーティストファイル展に出展されている、タラドノヴァンさんのこちらなど。
http://www3.nact.jp/af2011/artist/tara_donovanより
そして忘れてはいけないのは、有名なモネの晩年の作品。

http://blog.livedoor.jp/hanano47/archives/51433554.htmlより





これらの共通点を探っていて、引っ掛かったのが「非中心的」「多声的」という言葉でした。
これは、クレメントグリーンバーグさんの「イーゼル画の危機」という批評文にあった言葉です。

「これは明らかに、始まり、中間、終わりを不要とする類の絵である。」(Greenberg 1948)

もちろん私の「好き!」は絵だけに限りませんが、この考え方がもしかしたらぴったりくるような気がします。
例えばロスコやポロック、モネのオールオーヴァーな画面は、まさに中心がなくて始まりも終わりもない(かなり乱暴な見方ですが)。


でも、トレスの作品はどうなるの?という疑問も。
こちらは最終的にはキャンディがなくなる=終わりがある。

でも、考えてみればトレスの作品は、その時々で様子が変わるものです。そして、その変化の仮定こそが作品。
ということは、常に流動し続ける始まりも終わりもないものとして理解しうるかもしれないなぁと思うのです。
(結局、オールオーヴァーだってキャンバスという枠があるじゃん!ってことと一緒。)
その流れで、オノ・ヨーコさんの過程を大事にする作品も好きなのかな。



それにしても、このような考え方ってニーチェ(永劫回帰)だとか仏教(輪廻)とかと近いのかなぁ…。


あともう一つ引っ掛かったのが、「美よりもむしろ歓喜」という言葉でした。
ピナ・バウシュの《私と踊って》のラストの叫びなどがまさにそれ。
こちらもまたいつかしっかりと考えてみたい概念です。



ひとりごと、終了。


2011年5月27日金曜日

こっそり、信仰告白。

何でもいいからレポートを書くことになり、ふとしたきっかけでAlexander McQueenへの私の愛(笑)を書くことにしました。
あまりに恥ずかしくなったら消すか公開設定日時を巻き戻して隠そうかと思います。








★
2010年2月11日、アレキサンダーマックイーンは自殺した。


実はこの日は、私の早稲田大学受験当日であった。早朝にこのニュースを知った私は(どうして受験当日にそんな時間まで起きているのかという質問は受け付けない)、その日一日中そわそわしていた。そんなコンディションの中、無事私は早稲田大学文化構想学部に合格し、今在籍している。偶然としか思えない。




そんなことはさておき、アレキサンダーマックイーンの服とショーが大好きであった私にとって、この日は非常に印象的な日となった。そして、服及びショー全体を作品と呼ぶならば、彼の近年の作品にはこの自殺を予期させるものがあったことに気づいた。彼の晩年の6期、中でも2009年SSから2010AWの4期は目を見張るものがある。この時期に彼の作品は永遠のテーマとも言える「生(/死)」に最も接近し、かつそれに対する応えを出そうとしているのだ。


このことを示すに、まず2007年AWまでの彼の作品を検証する。


各シーズンへの事細かな説明は割愛させていただくが、彼の作品は概して良くも悪くも「目を引く」ものであった。例えば1999SSはジャクソン・ポロックのアクションペインティングを意識したかのようなパフォーマンスをしている。2001SSなどは、アート界を騒がすダミアン・ハーストの作品を連想させるガラスケースを置き、独特なショーを行なった。麻薬使用が報道されて危機にあったケイト・モスのホログラムをショーのラストに登場させた2006AWは記憶に新しいだろう。他にも、彼は毎シーズン大規模な装置とリアルクローズとは言いがたい服を見せてきた。まさに良くも悪くも話題性に事欠かないことが彼の大きな特徴なのである。


では晩年の4期はどうだったのか。それを述べるために、まずは2008年SSを取り上げなくてはならない。このシーズン、彼は自分がデザイナーとしてデビューするきっかけを与えてくれたイザベラ・ブロウが亡くなったことを受けて、彼女を追悼するショーを行なった。その内容は、彼女が好きであったような服をマックイーンお得意のテーラードや装飾的な自然モチーフを用いて表現するというものであった。このシーズンの服は、彼のそれまでの服と照らし合わせてもとりわけ目立った変化はない。しかし、ここで注目したいのは「死」というテーマを自分の親愛なる人物の死を通じてリアルなものとして扱っていることである。


彼は自らのブランドのアイコンにどくろマークを用いている。これがファッションにありがちな「イメージだけの借用」であったのか、それとも何か深い理由があってのことなのかは、残念ながら私は知らない(どうして彼がアイコンにどくろを選んだのかを知っている方がいたらご教授願いたい)。少なくとも言えるのは、彼は「死」に関して無関心ではなかったということだろう。しかし、彼の作品で「死」が2008SSほどリアルなものとして扱われたことはそれまでなかった。その意味で、このシーズンは注目に値する。


その後2008AWは貴族の服装史を辿るかのような壮大なショーを見せる。貴族趣味は彼の定番であるが、歴史を総括するようなショーという点ではこのシーズンは一位を争うだろう。しかし、いかにも「彼らしく」、予定調和的とも言える。




では、やっと本題に入ろう。2009年SSコレクションは、「NATURAL DIS-TINCTION UN-NATURAL SELECTION」というテーマのもと、強く動物や植物の生命の大切さを訴えかけるものとなっている。服の形態も、未だに彼のトレードマークであるテーラリングの片鱗は見えなくもないが、かつてないほどの有機的なシルエットである。さらに、自然をイメージしたと思われるテキスタイルの凝りようなどを見ると上辺だけのテーマ設定とは思えない。このショーには、おそらく2008SSに「死」という形で火がついたと思われる彼の生命に対する思いが、「生」という形で現れているのだ。
 
さらに、2009年AWでは自らの過去のショーで実際に使った舞台装置をそのまま空間構成に活かしている。これは自らの「生」を振り返った結果生まれたと見ることが出来るのではないか。それらの舞台装置を黒く塗りつぶしていることも、彼の振り返りの結果として非常に興味深い。
 
中には2009年の2つのショーを、社会における環境問題に対する意識の盛り上がりを受け、いわゆるポリティカリーコレクトネスを主張している作品だと見る人がいるかもしれない。まさに彼の特徴である話題性づくりの一つであるということだ。そのような人は、これらの作品をマックイーン自身の「生」に対する思いであると読み取るのは行き過ぎだと言うかもしれない。しかし、次の2010年のコレクションを見ると私がこのように意見する理由を感じてもらえるだろう。


2010年SSコレクションのテーマは、「PLATO'S ATLANTIS」である。始めは地球上の生物を連想させ、終盤に向けて大きく包み込むような水ー生命の源泉を産み出した場所を示唆するテキスタイルは秀逸である。これは2009SSの動物や植物に対する「生」の意識よりもより包括的な「生」を示唆しているように見える。また、このショーでは驚くことに彼の定番であるロングドレスやスーツ風のディテールが皆無である。今まで執着し続けたものを捨ててまで表現したかったものがあるのだろう。このショーには強い「生」へのメッセージがこめられているのだ。そして、このショーはそのテーマからもわかるように、社会的なポリティカリーコレクトネスを主張するような素振りは見られない。純粋に「生」なのだ。


ここまで2009年SS~2010年SSをまとめると、まずは動植物の「生」へ、次に自らの「生」へ、そして地球上に生きる生命体全体の「生」へと彼の関心が掘り下げられていったことがわかる。これは彼にトレードマークを捨てさせるほどの強い関心であった。話題性を狙った上辺だけのものでない、「生」への真摯な向き合い方が見てとれるこれらの作品に私は高い評価を与えたいのである。




最後に忘れてはならない作品がある。自殺直後に発表された彼の遺作、2010AWである。 おそらく勘のいい方ならば、ここでもテーマは「生」にまつわるものなのではないかと考えるだろう。私もそのように考えている。しかし、ここでの表れ方はそれまでと異種のものである。それは、宗教への忠誠心という形で現れているのであった。


2010AWは、それまでの有機的な形からうって変わって、司祭を思わせるシルエットに宗教画をモチーフにしたテキスタイルを用いている。一見すると「キリスト教をテーマにしてみました」レベルの引用とも取れなくはないが、前の3期の作品を見るとこれは決して表面上のそれとは考えられない。彼の「生」は明らかなキリスト教への忠誠心という形になり、作品に現れ、そして自殺という形で完結したのだ。


こう考えると、このタイミングで彼が死を選らんだのはある種の必然だったのかもしれないと思われてくる。「生」をひたすらに考えた結果、彼は今現在の地上を離れ、神のいる天国を選んだ。彼の長く続いた「生」の探求は、こうして終わりを告げた。


改めて、私が2009SSから2010AWに対して特別な思いを抱く理由をまとめよう。それは、まさに彼の「生」の結集である。私は、一人の人間の「生」を垣間見たのである。




彼の服は、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館で展示されている。あまりの人気に会期を延長したそうだ。「生」をその作品に捧げた偉大なるデザイナーが、人の心、そして単体の人を超える歴史の営みに刻まれていくのは非常に喜ばしいことである。


★



2011年4月13日水曜日

京都旅行記

2月に1週間行ったフランスから帰って、思ったこと。

「日本のこともっと知ろう!」

そんな意気込みのもと、4月8日の深夜~12日の早朝にかけて夜行バスで行って来ました、京都。



1日め
京都在住の方に通な京都を案内していただいちゃった1日でした。

藍染体験
山科にある本藍染雅織工房でハンカチを染めてきました。
染める時に染料の溶けた液体に手を浸すことになるのですが、そうすると肌が真っ青に!

なんだかイヴクラインを思い出しました。
http://meta-sirius.tumblr.com/page/2より




この藍染は全て自然の力で成り立っているそうで、最後に中和させるために酢酸=お酢に浸した時にはびっくり!
お寿司の香りがしました笑


京都市内巡り
宮脇貴扇庵というお店の扇子にうっとり。
それ相応の身分になったら…!!

錦市場はあの親密感が魅力なのだろうなぁ。


歩いて見つけたものたち。



都おどり
東に歩いていたら偶然着いた都おどりの会場。しかもその日の公演最終回20分前。
実は都おどりが観たかったのにスケジュールに組み込めなくて諦めつつありました。
「これは!」と思い、気づいたら当日券を買っていました。
もちろん大満足。
特にラストは圧巻!


http://wn.com/Awa_Odori_Part_1_of_3より



この日のグルメはお昼のすき鍋と夜の地鶏。
美味しすぎて食べ過ぎた夜。


2日め
怒涛の京都~嵐山往復サイクリングというスケジュール!
市街地からお寺、大自然まで堪能した1日。

二条城
北上する途中に行った二条城。
二の丸御殿がお気に入りで、建物の全体像自体が面白いし、襖絵や天井、その他装飾が部屋毎に違っていてついじっくり見てしまいました。
庭園もまた綺麗だった!

かなり大幅に予定時間オーバーしちゃいました。





金閣寺・龍安寺・仁和寺

やっぱり行かなきゃ!という訳で行った3つのお寺。
金閣寺は修学旅行の思い出フラッシュバックしまくりました。

龍安寺はやっぱり石庭が綺麗!


でも実はこの中で一番のお気に入りは仁和寺で、スケールの大きさに感動。
宝物殿も特別公開されていたので、さらに感動。

さすが真言宗大本山。


嵐山の自然
仁和寺辺りから体力の限界を感じつつ、池や田園をサイクリングしていたらかなり元気回復!
夢に描いたような風景でした。



嵐山公園は桜満開、出店たくさんで、テンションが上昇。
帰りは桂川沿いを走った後に京都駅へ帰還しました。

この日のグルメは何よりも夜。
関西に来ていた父親と奈良の家で食べました。
父作のお味噌汁が美味しかった!
やっぱり家族ご飯は良いものです。


3日め
春から早稲田大学へやってくる方に東山中心に案内をお願いしちゃいました…!
何だか、もらいっぱなしで申し訳なくなるくらい楽しかった1日。

建仁寺・銀閣寺・哲学の道
やっぱり行かなきゃ!という訳で行った場所。
建仁寺は天井画がかっこよかったです。


銀閣寺は向月台が好き。

哲学の道はまさに桜満開で、幸せ気分でした。




0000ギャラリーの方々と遭遇
南禅寺では0000ギャラリーの方々と遭遇!
こっそり憧れのobさんにも会えて、かなり興奮。
しかもobさんお手製料理までいただいちゃいました。
めちゃくちゃ美味しい。

その後は時間余り過ぎて同志社大学へ(迷いながらも)行き、休憩。

円山公園
夕食後は円山公園にてお花見しました。

ものすごく大きな桜で、それがとっても綺麗。
木が元気だからこそ、大きくて美しい花を咲かせるんだろうな。


この日のグルメ。お昼も夜もご厚意で老舗和食屋で京弁当をいただきました。
薄味で様々な味が楽しめて幸せ。

実は何よりも夜に出た半熟ゆで卵が衝撃的でした…。
半熟ゆで卵大好きな私が毎日好みの固さで作っているゆで卵に勝ってしまったゆで卵。



なんだかんだで、けっこう京都の有名どころや伝統、日常の町まで堪能してきた3日間でした。

京都について何よりも感じたのは、
「都だ!」
ということ。
歴史があってかつそれがある程度残っていて、さらに自然も美しい。

何かを代表する「顔」になれる場所だなぁと思います。