2011年12月19日月曜日

【追記】ファッションは「次」に行けるのか?

一つのクリシェー紋切り型から、他ジャンルのアプロプリエーションー奪用へ。
2011年度の繊維研究会のインスタレーションは、そのような仮定の元にファッションの「次」を考えるというものでした。


パンフレットに載っている論考によると、90年代のギャルは「「スカート丈」から「髪の盛り方」まで、事細かにファッションが定式化された」のだそうです。しかし、「2005年前後のギャル・ギャル男雑誌のストリートスナップはそうしたメソッド化から逸脱し、さらに性質上交わることがないはずの「モード系」、「裏原系」のアイテムを取り入れたルックが取り上げられるように」なった、と。
このことを他ジャンルからのアプロプリエーションと捉え、DJの多数の曲を自由に繋ぎ合わせる様、あるいはシミレーションアートの既存のものを利用する様との類似性を指摘しています。



Untitled Film Still No.21 1978 saatchi gallery


この主張は、Nicolas Bourriaudの『Postproduction』(Lukas & Sternberg,2001)における議論と類似しているように見えます。
In Postproduction, I try to show that artists' intuitive relationship with art history is now going beyond what we call "the art of appropriation,"  which naturally infers an ideology of ownership, and moving toward a culture of the use of forms, a culture of constant activity of signs based on a collective ideal: sharing.(『Postproduction』「PREFACE TO THE SECOND EDITION」p3 )


彼は、資本主義の行き過ぎによる「スペクタクルの社会」(ギー・ドゥボール)への打開策として、「相互的な人間関係やその社会背景」に価値を見出す『Esthétique relationnelle』(英訳『Relational Aesthetics』,Les Presse Du Reel ,1998、以下「関係性の美学」とします。)を書きました。その関係性の美学の次に、ネットによって生み出された知識のかたちーforms of knowledge generated by the appearance of the Net (同上「INTRODUCTION」p2)ーを扱ったのがPostproductionです。

Postproductionで述べられることは、東浩紀さんのことばを借りれば「データベース消費」をすることと重なります。データベース消費とは、以下の図のような消費の仕方を指します。(詳しくは『動物化するポストモダン』東浩紀,講談社,2001を参照)

http://www62.tok2.com/home/eringilove/doupomo2.htmlより

しかし、ここで重要なのは、ただ奪用するのではなく、全ての人がクリエーターになることです。
他ジャンルが「組み合わさってている」ことではなく、自らが他ジャンルを「組み合わせる」ことに価値を見出しています。いわば、上からではなく下から能動的に創造的なものを生み出そうとすることが重要なのです。
It is the viewers who make the paintings (『Postproduction』「INTRODUCTION」p2)
このことを、ブリオーはマルセル・デュシャンのことばを参照しながら述べています。
ちなみにですが、関係性の美学でもデュシャンの「The creative process.」の冒頭


the two poles of the creation of art:the artist on the one hand, and on the other the spectator who later becomes the posterity.(The creative process.」,Marcel Duchamp,1957) 
 に触れています。




では、これはどういうことでしょうか。例えばファッションを考えてみます。
もしも奪用自体が目的ならば他ジャンルの組み合わせを自由に楽しむ状況は好ましいものです。
一方で、その「他ジャンルの組み合わせ」が商業的に大々的に売りだされたら?
ストリートで流行っているとして雑誌で紹介されたり、お店で似たような着こなしが提唱されることはよくあることのようにおもいます。
そして、それは「他ジャンルの組み合わせ」ではなく「1つのジャンル」として確立されてしまうということです。
結局、わたしたちは思考停止したまま与えられるファッションを享受するだけの消費者になります。
「組み合わせる」ではなく「組み合わさっている」状態(あるいはもはや「組み合わせ」ということばを使えない状態)です。


最初に挙げた
一つのクリシェー紋切り型から、他ジャンルのアプロプリエーションー奪用へ。
は、この問題に触れていません。
つまり、そこでは「組み合わさっている」と「組み合わせる」の区別がありません。


組み合わせの「質」にも目を向ける必要があるのではないか、とわたしは考えます。


1つの解答として繊維研究会主催のトークで水野大二郎さんが述べていたWebをつかったセルフファブリケーションがあります。
これは、まさにデータベースをWeb上に作り、そこから自分の好きなようにパーツを組み合せて服をオーダーするもののようにわたしは理解しました。
確かに、この方法が普及すれば「組み合わせる」ことが可能になります。


しかし、まだ考える余地があるようにおもいます。
例えば、「組み合せる」時に誰かを参考にーあるいは誰かの真似をすることはないのか?
さらに言えば、Webの解析に任せてしまうことはないのか?
いちいち自分で全部考えるのは面倒です。
そして、Amazonのおすすめなどのサービスの在り方がWebとは相性がいいです。


また、セルフファブリケーションが普及した時、「デザイナー」とは何をすべきなのか?
言ってしまえば全員がデザイナーとなる時、プロの「デザイナー」は可能なのか?
これはファッションデザイナーを志す人にとって考えなくてはならない課題なのではないでしょうか。




ここで、ありうる今後の在り方の1つを述べてみようとおもいます。
それは、「組み合わせるためのシステムをデザイナーが設計する」です。


例えば、先ほどのファブリケーションの提案のように、データベースをWeb上であれ実際のショップであれに作るとします。このとき、何をデータベースとして蓄積するか、どのようなプロセスを通じて組み合わせるかなどをデザイナーが考えます。


わたしは、「組み合わせる」を目指す鍵はシステムにあると考えています。
これはつまり、どんなシステムかによって、参加の仕方もそこから生み出されるものも変わってくるということです。


そこで、どのようなシステムであれば「組み合わさっている」ではなく「組み合わせる」状態に導くことが出来るかこそがデザイナーの考えるべきことではないかと考えました。
もしかしたら、それは服単位ではなくパーツ単位を扱うセレクトショップのオーナーのような存在かもしれません。
どのようなパーツをどのような店舗で見せるか、それを考え、作っていくのがデザイナーの役割となるのではないでしょうか。






私事になりますが、わたしは今、関係性の美学及び広い意味での「建築」あるいはアーキテクチャに関心を持っています。
また、ファッションは「建築」と類似しているのではないかという仮定も立てています。
(これはまだ十分な検証をしていないので仮定の域を出ていませんが。)


そこで、ファッションにおけるシステム設計は「建築」の設計の思想に何か参考になる点を発見できるのではないかと期待しています。
例えば、シチュアシオニストの建築ではコンピテンス(内発的学習意欲)を誘発する仕組み=ユーザが環境と相互作用する能力を発動させる仕掛けづくりを意識していたといいます。
ここで使われた方法をそのまま適用することは難しいとしても、ヒントには成りうるのではないでしょうか。




「組み合わせる」をキーワードに、服だけでなく、その周りを含めたシステムを作り出すことが「次」に行く一つの方法に成りうるとおもいます。




【追記】
批判として「訳がわからない」ということばをいただきました。
その訳のわからなさの原因に、
1 論理的に矛盾している
2 語彙が共有できていない
が想定できます。
1の場合は、ぜひその該当部を指摘していただきたいです。指摘に対して答えようとおもいます。
2の場合は、例えば「データベース消費」の説明を割愛している、英語の文献をそのまま引用している、などの指摘があるかとおもいます。
データベース消費に関しては、確かにある程度知識があることを前提としました。
なぜならば、東浩紀さんの考えを正確に、簡潔にまとめることができる力がわたしにはないと考えたからです。
そこで、代わりに参考文献を提示しました。そちらを参照していただければとおもいます。
英語に関しては、この文献はまだ日本語訳がないこと、恣意的に訳しては解釈に歪みが出てしまう可能性があること、英語は比較的触れたことのある人が多いだろうこと、その3点を理由に原文を載せました。