2011年8月17日水曜日

【追記】Ecosophiaー堂島リバービエンナーレに行ってきた

私、実は純関西系の血筋だったりします。
両親も祖父母も皆関西出身です。


とはいえ、しばらく帰って(育ちは東京なのでこの表現がぴったりくるのかはわかりませんが)いなかったので、この夏は祖父母を訪ねて大阪に行ってきました。


今回の帰省の最大の楽しみは、アーティスティック・ディレクターを務めていらっしゃる飯田高誉さんのツイートを見て気になっていた「堂島リバービエンナーレ」。


期待通りの印象的な展示でした。


サイトには以下のようなコンセプトがあります。
エコゾフィー(今回の展示の基になった概念)とは、環境の生態に止まらず、心や社会の生態を組み合わせた考察という意味の造語で、環境の危機に対する真の答えは、事象を地球規模でとらえ、有形無形の財の目標を再設定し、これまでの規範を越えた文化的な活動を行うという考え方です。
環境・心・社会の組み合わせを謳うこの文章も考えさせてくれるものがありますが、何より印象的だったのは 飯田さんのTwitterでの以下の発言でした。
@TAKAYOIIDA 堂島リバービエンナーレでは、まさに感性と理性の和合を試み、(中略)我々の感覚=智領域を押し広げてくれることを願っております。
感性と理性の和合って、なんだかわくわくします。




さて、展示の中で印象的だったのは、チームラボさんの作品と安部典子さんの作品とマーティン・グリードの作品。


まず、チームラボさんの作品「百年海図巻」。
こちらに概要が載っています。
作品自体のコンセプトも面白いし、アニメもとてもきれいでした。
でも何より印象的だったのは展示されていた位置。
主会場を上から見下ろす形で設置されていて、アニメの内容をあわせて考えると海に沈んでいくものは・・・と考えてしまいました。




安部典子さんの作品は3つ出展されていたのですが、そのどれもから「堆積」と「炸裂」という言葉を連想しました。
ちなみにですが、「堆積」って永遠や無限、歴史の厚みを感じるので好きなんですよね。
(写真は取れなかったのですが、こちらのブログに作品写真が載っています。)


特にお気に入りなのは震災の新聞と赤い球の作品。
この赤い球の「ごろり」とした感じが心に引っ掛かります。




そしてずば抜けて心に残ったのがマーティン・クリードの作品。
1つはターナー賞を受賞したThe lights going on and off
 もう一つはこちらのthe whole world + the work = the whole world のネオンではないバージョン。会場入口上にありました。
震災にフォーカスを当てている、あるいは震災を彷彿とさせる作品が多い中で、なぜこれらの作品が選ばれたのかが興味深いです。
「アートとは何か」という、これらの作品が提起する問いの重さを感じます。
今回の展示への思いというか、disasterを前にしたアートの思いがここに凝縮されているように感じました。




月曜日に行ったので国立国際美術館の森山大道さんの個展も、THE SIXの加藤泉さんの「遙かなる視線」も見られなかったという大失態。。。
でも、堂島リバービエンナーレだけでもなかなか満足感の高い展示だったのでよしとします。笑




追記
先日、Ecosophiaという言葉について次のようなことを教えて頂きました。
Sophyの語源のギリシア語であるΣΟΦΙΑ(ソフィア)は知性の意味。Ecoの語源であるギリシア語のοἶκος(オイコス)は「氏族、家屋の集まり、集落」の意味なので、Ecosophyは「共に生きる場についての知恵」。共に生きる場=自然環境+社会環境
語源に遡ったこの解釈の仕方は非常に明快でわかりやすいです。


公式サイトのコンセプトにもありますが、Ecosophiaの基になったエコゾフィーは、フェリックス・ガタリの『3つのエコロジー』からとったもののようです。
(ちなみにですが、最近の飯田さんのTwitterを読むと度々『3つのエコロジー』からの引用が見られます。)
以下、付け焼刃ながら勉強したことについて少し。


エコゾフィーはEcology(Eco)+Sophiaの造語のようですが、ガタリの指すEcoとは、
・環境
・社会体ー社会的諸関係
・主観性ー人間的主観性
とのこと。
『3つのエコロジー』には次のような言及がされています。
われわれの生きているこの時代の大きな危機からの脱出は、まさしく、発生期状態の主観性と、変異状態の社会体と、再創造の臨界点に達している環境という三つの要素の節合いかんにかかっているのである。


このような知識を得ると、先に挙げたコンセプトのエコゾフィーに関する説明がよりクリアにわかります。


さて、この「大きな危機」とは何かが気になるところですが、別の箇所では以下のような記述が見られます。
フランスにおける原子力発電所の急増は、ヨーロッパの広域な地域にチェルノブイリ型の自己が起きた場合の影響の危険性を押しつけているのである。幾千発もの核爆弾の貯蔵が、ささいな技術的故障あるいは人間的過失によって、自動的に人間の大量殺戮に結びつくという途方もない危険性についてはあえて言及するまでもなく周知のところであろう。
言うまでもありませんが、今、この言葉は非常に重いです。




ちなみにではありますが、私は今回のディレクターである飯田さんをとても尊敬しています。


彼は今回の展示を自身の過去の展示との関連の中で捉えられているようです。例えば
1994年「欲望の砂漠ー快感原則の彼岸展」
2009年『ARCHITECT 2.0』
2010年『LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010「メタボリズム2.0」』
2010年「ゼロ年世代"の都市・建築・アート『CITY2.0-WEB世代の都市進化論』」
など。


また、今後の展望として飯田さんはTwitterで次のように述べられていました。
エコソフィアというテーマで、これからも展開できればと考えております
2007年から2010年までの間に4回にわたって企画開催した「戦争と芸術ー美の恐怖と幻影Ⅰ~Ⅳ」(京都造形芸術大学)の意味を今一度自ら再考し、深化させていきたい。
期待大です。


また、気になる発言としては以下のようなものもありました。
優れた芸術作品ほどリビドーの発生するマージナルな領域に棲息し、その不条理を顕在化させる両義的な役割があるように思えます。ただ悟性のはたらきによってリビドーそのものを客体化させるのも芸術の役割であるはずだと考えております。
難しい言葉が並んでいてこの文章を理解しきれてはいないのですが、飯田さんの芸術観に触れられる貴重な発言かと思います。


・・・とまぁ飯田さんのストーカーのようになってしまいました。
しっかりとその活動を見て、学びたいなぁと思っています。



2011年8月12日金曜日

アートってなんなのだろうか。

An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler




「アートとは何か」という問いは長年繰り返されてきたものだと思います。


この問いに対して「アートとは〇〇だ。」と普遍的定義を唱えることはナンセンスだとは思うけれど、敢えて、最近このことについて考えています。
ほんと、アートって何なのだろうなぁ。


遡って古代から歴史を考えてみると、それは模倣であり、象徴であり、天才の所産であり、乗り越えてゆくものでありetc。
もちろんそれは西洋だけではなくて、いわゆる東洋と呼ばれる地域でも独自の考え方があることを、最近勉強しながら面白いなぁと思っています。(西洋/東洋という区切りの妥当性はここでは考えず、わかりやすいだろうということで使っています。)


このように歴史の縦軸・地域の横軸を全てとは言えないまでも見渡してみると、いろんな考え方があったことに驚きます。
その時代や地域の世界の見方がアートの在り方にも反映され、絶対的アートたるものはないのだろうなぁというのが正直な感想です。


しかし、これを言い換えてみれば「世界の見方を提示するもの」がアートだと言えるかもしれません。
さらに、歴史を見ると、その「世界の見方」は既に在るものだけではなく、これから在るべきものでもあるのではないかと考えました。


An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler


この言葉は、主語がartistなのでモダニズムの時代の考え方が読み取れますが、それを差し置いても「for  (his) vision」には注目せざるを得ません。




では、問うべき(というよりも問うことが出来る)は、「今ここ」にふさわしい世界の見方ーvision、そしてアートとは何なのだろうかということです。
(ここで言う「今」「ここ」は具体的に何を指すのかには触れません。)


詳しく考える前に、20世紀以降のアートを概観していると、私には次のように見えました。
絶対的な存在としてのアーティストを通過したアート
→社会を通過したアート
→社会の中の個人(アーティスト)を通過したアート
→?


これは極個人的な考えなので20世紀以降の全ての要素を網羅しているとは思っていませんが、とりあえずここではこれを採用します。
これを言い換えると、


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
→?


となります。
ならば次の?に当てはまるのは、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入することなのではないかと考えました。
つまり、面を平行移動した軌跡のように、四角柱が作られるイメージです。


これを具体的に言い表すとどうなるのかというと、社会にいるあらゆる人々が「総アーティスト状態」ということになるかと思います。
その実現のために考えられるのは、
・いわゆる参加型アート
・アーティストの教育活動
ではないでしょうか。


まず初めの参加型アートは、最近よく見るような気がしています。
ここでは具体例を挙げませんが、ワークショップ系の活動や、Nicolas Bourriaud の『Relational Aesthetics』に挙げられる作品を考えるとその流れを感じます。


しかし、ここで私が注意したいのが、「のるか、反るか」の作品ではダメではないかということです。
例えば以前、椹木野衣さんの「後美術論」ではオノ・ヨーコさんの作品を「のるか、反るか」と表現していました。
これは春のArt|Baselでも行われた「Wish Tree」もそうで、観客がどのような行為をするかは決まっていて、それをやる・やらないの選択(のみ)が自由であると言える作品のように見えます。(実際行っていない人に言えることではないのですが。。。)


もちろん1つ前のブログエントリーで紹介したように、私はオノ・ヨーコさんの作品が好きです。
しかし、もしも「総アーティスト状態」を目指すとするならばその真似ではいけないのではないかと思うわけです。
何故ならば、確かに参加決定権は観客側にあるけれど、それはアーティストとしての参加ではなく、あくまで一観客としての参加だからです。
これは例えるならば「いいね!」ボタンを押すだけの行為と同じ。
ちょうどTwitterで玉置沙由里さんがつぶやいていた、


自分を成長させるためにはやはり負荷が高い準備と議論の場が必要であると判断。いいね!だけでは成長できない(後略)


が思い出されました。
アートと彼女の言う成長は関係ないのかもしれないけれど、いいね!の次の段階が求められつつあるように思います。


そのようなわけで、「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」というのがこの「総アーティスト状態」にふさわしい参加型アートなのではないかと思います。


では、2番目のアーティストの教育活動。
これは、アーティストに対して「教育」が可能なのか?という根源的な問いも含めて、最近自分が気になっていることです。
まだ自分の中で考えがまとまらないので詳しくは触れませんが、「総アーティスト状態」とアーティスト教育が結びつくロジックは単純明快かと思います。


さて、ここまで参加型アートとアーティスト教育が


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
の後に続く、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入するー「総アーティスト状態」の在り方なのではないかと言いました。




しかし、本当に考えないといけないのはvision、アートの在り方です。
ここで注意したいのが、参加型アートとアーティスト教育は提示すべきvisionではなく提示する形式だということです。
つまり、内容ではなく形式だということです。
これでは答えになっていません。


しかし、この参加型アートとアーティスト教育の内容ーvisionがもしも1つに集約されるとしたら、それは「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」参加型アートには成り得ないし、単なる軍国主義的アーティスト教育にしかなりません。


ならばどうすればいいのか。
そこで私は「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvisionなのではないかと考えます。
つまり、多様なvisionがあるけれど、それは世界の見方ーvisionを提示するための手助けとなるようなvisionであるということです。
この考え方は「総アーティスト状態」にふさわしいもののように思います。




「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvision
これが「今ここ」のアートなのかなぁ。
ついでにそれは参加型アートとアーティスト教育とかになるのかな。もちろんこれだけではないけれど。


以上が、最近ぼんやりと考えていたことでした。