2011年8月12日金曜日

アートってなんなのだろうか。

An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler




「アートとは何か」という問いは長年繰り返されてきたものだと思います。


この問いに対して「アートとは〇〇だ。」と普遍的定義を唱えることはナンセンスだとは思うけれど、敢えて、最近このことについて考えています。
ほんと、アートって何なのだろうなぁ。


遡って古代から歴史を考えてみると、それは模倣であり、象徴であり、天才の所産であり、乗り越えてゆくものでありetc。
もちろんそれは西洋だけではなくて、いわゆる東洋と呼ばれる地域でも独自の考え方があることを、最近勉強しながら面白いなぁと思っています。(西洋/東洋という区切りの妥当性はここでは考えず、わかりやすいだろうということで使っています。)


このように歴史の縦軸・地域の横軸を全てとは言えないまでも見渡してみると、いろんな考え方があったことに驚きます。
その時代や地域の世界の見方がアートの在り方にも反映され、絶対的アートたるものはないのだろうなぁというのが正直な感想です。


しかし、これを言い換えてみれば「世界の見方を提示するもの」がアートだと言えるかもしれません。
さらに、歴史を見ると、その「世界の見方」は既に在るものだけではなく、これから在るべきものでもあるのではないかと考えました。


An artist is not paid for his labor but for his vision.   -James Whistler


この言葉は、主語がartistなのでモダニズムの時代の考え方が読み取れますが、それを差し置いても「for  (his) vision」には注目せざるを得ません。




では、問うべき(というよりも問うことが出来る)は、「今ここ」にふさわしい世界の見方ーvision、そしてアートとは何なのだろうかということです。
(ここで言う「今」「ここ」は具体的に何を指すのかには触れません。)


詳しく考える前に、20世紀以降のアートを概観していると、私には次のように見えました。
絶対的な存在としてのアーティストを通過したアート
→社会を通過したアート
→社会の中の個人(アーティスト)を通過したアート
→?


これは極個人的な考えなので20世紀以降の全ての要素を網羅しているとは思っていませんが、とりあえずここではこれを採用します。
これを言い換えると、


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
→?


となります。
ならば次の?に当てはまるのは、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入することなのではないかと考えました。
つまり、面を平行移動した軌跡のように、四角柱が作られるイメージです。


これを具体的に言い表すとどうなるのかというと、社会にいるあらゆる人々が「総アーティスト状態」ということになるかと思います。
その実現のために考えられるのは、
・いわゆる参加型アート
・アーティストの教育活動
ではないでしょうか。


まず初めの参加型アートは、最近よく見るような気がしています。
ここでは具体例を挙げませんが、ワークショップ系の活動や、Nicolas Bourriaud の『Relational Aesthetics』に挙げられる作品を考えるとその流れを感じます。


しかし、ここで私が注意したいのが、「のるか、反るか」の作品ではダメではないかということです。
例えば以前、椹木野衣さんの「後美術論」ではオノ・ヨーコさんの作品を「のるか、反るか」と表現していました。
これは春のArt|Baselでも行われた「Wish Tree」もそうで、観客がどのような行為をするかは決まっていて、それをやる・やらないの選択(のみ)が自由であると言える作品のように見えます。(実際行っていない人に言えることではないのですが。。。)


もちろん1つ前のブログエントリーで紹介したように、私はオノ・ヨーコさんの作品が好きです。
しかし、もしも「総アーティスト状態」を目指すとするならばその真似ではいけないのではないかと思うわけです。
何故ならば、確かに参加決定権は観客側にあるけれど、それはアーティストとしての参加ではなく、あくまで一観客としての参加だからです。
これは例えるならば「いいね!」ボタンを押すだけの行為と同じ。
ちょうどTwitterで玉置沙由里さんがつぶやいていた、


自分を成長させるためにはやはり負荷が高い準備と議論の場が必要であると判断。いいね!だけでは成長できない(後略)


が思い出されました。
アートと彼女の言う成長は関係ないのかもしれないけれど、いいね!の次の段階が求められつつあるように思います。


そのようなわけで、「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」というのがこの「総アーティスト状態」にふさわしい参加型アートなのではないかと思います。


では、2番目のアーティストの教育活動。
これは、アーティストに対して「教育」が可能なのか?という根源的な問いも含めて、最近自分が気になっていることです。
まだ自分の中で考えがまとまらないので詳しくは触れませんが、「総アーティスト状態」とアーティスト教育が結びつくロジックは単純明快かと思います。


さて、ここまで参加型アートとアーティスト教育が


アーティストという縦軸だけ
→社会という面にシフト
→面はキープしたままアーティストという細い一本の縦軸も加わる
の後に続く、面に一本だけでなく多数の縦軸を導入するー「総アーティスト状態」の在り方なのではないかと言いました。




しかし、本当に考えないといけないのはvision、アートの在り方です。
ここで注意したいのが、参加型アートとアーティスト教育は提示すべきvisionではなく提示する形式だということです。
つまり、内容ではなく形式だということです。
これでは答えになっていません。


しかし、この参加型アートとアーティスト教育の内容ーvisionがもしも1つに集約されるとしたら、それは「観客とされていた人自身が、その作品との関わり方を自由に決めることができ、自由に振る舞うことが出来る」参加型アートには成り得ないし、単なる軍国主義的アーティスト教育にしかなりません。


ならばどうすればいいのか。
そこで私は「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvisionなのではないかと考えます。
つまり、多様なvisionがあるけれど、それは世界の見方ーvisionを提示するための手助けとなるようなvisionであるということです。
この考え方は「総アーティスト状態」にふさわしいもののように思います。




「世界の見方」を提示する方法を探すための「世界の見方」こそがアートが提示するvision
これが「今ここ」のアートなのかなぁ。
ついでにそれは参加型アートとアーティスト教育とかになるのかな。もちろんこれだけではないけれど。


以上が、最近ぼんやりと考えていたことでした。





















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