2011年9月10日土曜日

横トリ雑感。

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突然ですが、バトンを、横トリ(横浜トリエンナーレ)で、受け取っています。

仕掛人は田中功起さん。彼は横トリに出品されています。
横トリ会場(横浜美術館)にあるのは、数本の映像と、畳や自転車といった映像に関係する小道具、そしてネット上で同じ映像が見られるURLを書いた紙。
1番はじめは、田中さんが自転車で旅をする映像です。 ここに写っているのは「何気ない」風景です。劇的な起承転結を求めて見ると、つかもうと思ってもつかめなくなってもどかしさを感じます。ここでピリッと効いてくるのが「 A painting to public」というタイトルです。inでもofでもなくto。また、「自分が旅で見た風景」ではなく「旅をする自分」を撮っているので、誰の視点なの?という不思議な感覚になります。かといって、全てが映っているわけではなく、神さまの視点ではないようです。
映像をもうひとつ美容室での一場面でしょうか。複数人で一人の髪の毛を切っています。綿密な話し合いにはじまり、こわごわと、あるいはにこにこしながらヘアスタイルを完成させていきます
これらの映像では、日常ー特に自分と周りの人々や物との関係性が示唆されているかのようです。
ところで、この作品は「いつ、どこに」あるのでしょうか?実際に映像に映っている行為が行われているところ?映像を見る会場?それとも、紙に書いてあるURLで映像を見ているところ?
どれも作品と言える、逆に言えばどこまでが作品かわからないーつまり、アートと非・アートの境界が滲み、生活へ作品が染み出してきています。例えば横トリの会場(横浜”美術館”)にあるのも過程です。それはその時その場でまとまり固まることはありません。その作品は、受け取った人がそれぞれ成長させます帰ってから再びネットで見ても(見なくても)よし、いつどこで誰と見てもよし。作品を種に友だちと話すのもよし。
ここで起きているのは、受け手が作品を作るという転倒です。作品は、周りを巻き込みながら育ち続けます。



1998年、フランスのキュレーター、ニコラ・ブリオーは『relational aesthetics』という本を出しています。 日本語で言えば、「関係性の美学」。 例として挙げられているのが、リクリット・ティラバーニャの、ギャラリーに来た人に料理をふるまい一緒に食べるという作品。物ではなく、過程やその中で生まれる関係性へ光が当たっています。これはどこか田中さんの作品との関連がありそうです。
(ちなみにですが、『relational aesthetics』はもうすぐ日本語訳が出るはずです。 また、「関係性の美学」に対して『表象5』にクレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」のが、『美術手帖』2011年4月号に大森俊克さんの「リアム・ギリックと『関係性の美学』」が掲載されています。これらの論に対しても、一部では「政治的側面に限定されすぎているのではないか」という疑問が提出されているようです。 何はともあれ、多くの人が関係性の美学に関心を持っていることがわかります。)

さて、アートに限らない話をします。 日々生きていく中では、目的の達成こそが目的なのでしょうか? それではいつまでも「実り」が先延ばしにされてしまうのではないでしょうか?そのような問いを田中さんの作品ーあるいは「関係性の美学」の光の当たる作品は発しているようです。
一方で、目の前がいくら輝いていても、先を見ようとしない場当たりの生活では不安は消えません。 ではどうすべきなのでしょうか?


ということで、受け取ったバトンはもう次へ繋ぐことができたようです。
もちろん、ここでリレーを止めてもかまいません。 また、このバトンは、いつでも、どこでも、誰にでも、何回でも何人にでも繋ぐことができます
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